ニューヨークに、そしてニューヨーカーに愛された家具デザイナー。
CANALIZE meets Takeshi Miyakawa | takeshi miyakawa design 宮川 剛

2018.11.16

—生活環境が激変ですね?

 

1992年頃、途方に暮れていると、家具工場で一緒だった建築家が、ラファエル・ヴィニオリのソーホーにある事務所で働きだしていて、事務所を見に来るように誘われました。そこにあったのが、制作中のメイプルを使った高さが2 m以上ある、東京国際フォーラムの1/50の壮大な模型だったのですが、運良く納期がギリギリの状態で、模型作りの担当者としてすぐに採用してもらえることになり。

 

働きだしてすぐに定時の9時からの作業では納期に間に合わないと感じ、朝5時には事務所に行き、他の人がいない効率的な時間帯に作業を始めました。すると代表のラファエル・ヴィニオリが7時頃には出社してきて、自然と話ようになり、持ち前の手先の器用さにも注目してくれて、信頼を置いてくれるようになり、しばらくすると模型作りのチームのリーダーに抜擢されました。

【宮川さんがプロジェクトに参加された東京国際フォーラムの模型】

 

—ラファエルさんとは、とてもいいパートナーシップを築かれたんですね。

 

時には、チャコールで書いた本人の芸術的なデザイン画を見せられ、「これを作ってくれ」と言われるような関係になり、彼の抽象的なデッサンを、スピーディーに簡易な模型という立体に落とし込むという役割も担当し。ラテンの血も流れる彼の情熱的なクリエイティビティと、職人気質な自分の解釈とをぶつけ合うという刺激的な経験もさせていただきました。

 

8年間そんな日々が続いた頃、自分の中で家具作りへの思いが強くなってきて、「事務所を辞め家具スタジオを始めたい。」とラファエルに伝えると、まだ彼が僕の力を必要としてくれていたのか、「一緒にやろう!」と言われました。

 

僕は自分の力でやりたかったので、「それはできない。」と答えると、バックアップするので、家具工房を立ち上げつつ、フリーランスとして、パートタイムで模型のプロジェクトも手伝って欲しいという条件を出され。そんな恵まれた状態の中、目をつけていたトライベッカの地下の小さなスペースで、2001年の初頭に家具工房をスタートすることになりました。

【宮川さんの、現在のスタジオ】

独立から、NYを驚かす事件へ

 

—ご自身のファクトリーを持たれてから、変化はありましたか?

 

意気揚々とスタートしたのですが、その年が「アメリカ同時多発テロ事件(9.11)」で、事件後2週間ほど工房のエリアが立ち入り禁止になるという事態に。幸い設備的なダメージは無かったのですが、ラファエルが国際貿易センター跡地のコンペに参加することになり、自分の工房よりラファエルの事務所にいる時間が長いような状態になりました。

 

コンペも終わり時間ができると、まだクライアントもいなかったので、自分の思いのまま、実験的な作品を作り出しました。まずは、スケッチを起こし、1/12サイズの模型を作り精査し、気に入ったものは実際に形にしていきました。

 

トライベッカの小さなスタジオで3年ほど過ごし、かつて勤めたウィリアムズバーグの家具工場の近くに200平米ほどの条件のいい物件を見つけ、工房を移転しました。その頃、友人の弟でシンガポールから、アメリカの名門芸術大学・クーパーユニオンに留学していた学生がインターンで手伝ってくれることになり作品作りに拍車がかかっていきました。

 

友人たちの後押しもあり、2008年の『BROOKLYN DESIGNS』というコンペティションに8点出品したところ、当時盛り上がってきていたブロガーの人達が、特に『Fractal 23(フラクタル23)』という作品を世界中に拡散してくれて。日本でも雑誌の『PEN』でも取り上げられたり、イギリスの『Wallpaper*』にインタビューを申し込まれたり、世界中の人からメールで問い合わせをいただけることになりました。

【世界中で話題になった宮川さんの作品『Fractal 23(フラクタル23)』】

 

 

—家具作り、作品作りに良い環境が整いましたね。

 

そんな全ての状況が好転した2012年、リーマンショックの後遺症から抜けきれないNYを元気付けたい気持ちで、デザインウィークのインスタレーションとして、ミルトン・グレイザー (Milton Glaser)の『”I Love New York”(アイ・ラブ・ニューヨーク)』のロゴ入りのバッグに光源を仕込んだ提灯のようなライトを10個作り、ゲリラ的に街灯などに取り付け始めました。深夜にグリーンポイントの公園の近くの交差点で友人と作業をしていたら、パトカー4台くらいに囲まれて逮捕されてしまい。

 

前日取り付けたものが爆弾と間違われて、近隣住民を避難させ爆発物処理班まで出動する事態になっていたことを告げられ。住民を巻き込むようなトラブルになったことを心底反省し、丁重に謝ったのですが収まらず、地元の警察に拘留され。罪状がテロリスト扱いということもあり、2500万円という保釈金を告げられ、協力者とお金を準備したにも関わらず受け取りを拒否され、イーストリバーの、厳しい環境で凶悪犯も多く収容されていることでも有名なライカーズ島の刑務所での30日間の強制収容と、精神鑑定を受けることになりました。

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Interview & Text YASUSHI FUJIO
Photo MOTOYA SAHARA

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